イタリア人への手紙
(兵庫県浜坂町の安泰寺で8年間修行し、イタリアで布教している、私の兄弟子、イタリア人僧侶の悠心さんへのメール)

悠心さん、メール有難うございました。

お尋ねの件ですが、正法眼蔵、「夢中説夢(夢の中で夢を説く)」は、法華経の諸法実相(すべての物が真実の姿を現している)という観点でみると、夢もまた真実です。つまり、「夢(真実)のまっただ中で、夢(真実)を説く(修行する)」という事になります。あなたのおっしゃる通り「証上の修」(元々、何の不足もなく、本来成仏しているという信の上の修行)と同じ事を言っています。私もすべての人も、元々真実の存在であるからこそ 修行(坐禅)したとたんに、悟り(真実)が現れます。長い修行の後、ごく限られた人だけが悟るというのではなく、すべての人に開かれた道であるのは本当に素晴らしい事です。

正法眼蔵「三昧王三昧」の冒頭には「驀然として尽界を超越して、仏祖の屋裏に大尊貴生なるは結跏趺坐なり」(いっぺんに、すべてを飛び越えて、仏の世界に尊い生(存在)となるのは、坐禅である)とあって、証上の修だから「修即証」なのです。坐禅が悟りなのです。

道元禅師の「学道用心集」に「仏法の為に仏法を修すべき事と」ありますが、内山老師は「仏法とは天地一杯の自己を生きること」とおっしゃっています。つまり、(仏法)天地一杯の自己を生きる為に、(仏法)天地一杯の自己を修行する」という事です。私はこれをさらに、「元々、宇宙と続きの自分が、より一層、宇宙の続きの自分に深まっていく事」と解釈しています。

さて、坐禅には苦しみをやわらげたり、性格が落ち着いてきたり、人生が生き生きしてくるなど、様々な効果があるかもしれませんが、そいう効果ばかり求めると、効果や悟りを求める坐禅修行になってしまって、せっかくの修行が純粋なものになりません。

 中世ドイツのドミニコ会神父、マイスター・エックハルトも「説教Ⅰ」の中で、「重い罪を犯さないように身を慎み、善人になろうと願い、神の栄光のために、たとえば断食、不眠、祈り、そのほかどんなことであっても善きわざなら、なんでもなす人々。このような行為とひきかえに、気に入るものを主があたえてくれるであろうとか、その代償に彼らの気に入ることをしてくれるはずだと考えているかぎり、これらの人々は、すべて皆商人である。」(岩波文庫)(差別的発言がありますが、原文のままのせました)と言っています。

 我々の師匠、渡部老師は、「近ごろの座禅は色付きや味付きばかりだ。我々は、無色透明の座禅をしなければならない。」と言われました。悟りや健康、精神の安定、個人の幸福など、見返りや効果を求めて座禅をしては、本当の座禅にならないという事だと思います。

 正法眼蔵「画餅」の巻の「画餅不充飢」(画に描いた餅は飢えを充たさない)これも諸法実相の観点からは「画餅」も真実です。だから私は、「真実(画餅)は人間の物足りようの思いを充たさない(不充飢)」というふうに解釈しています。沢木老師は、「仏法は無量無辺、小さなお前の思いを物足りさすようなものであるわけはない」とおっしゃいました。

「金剛般若経」には「阿のく多羅三みゃく三菩提(無上正等正覚)(悟り)の得べきあることなし」とあります。これは何も得るものがない、「無所得」「無所悟」の修行のことを言っています。「無所得得常精進」(何も得ることが無く、完成していないからこそいつも前に向かって進む)「只管打坐」(何もアテにせず、ただひたすら坐る)みな同じ事を言っています。

ただ坐るだけなので無念無想になる必要もなく、悟りを開く必要もなく、思いが浮かんでは消えていくだけです。永平寺二代目の懐奘禅師の「光明蔵三昧」には、「念の起こるを嫌わず、また念を愛して相続せず。」とあります。(無念無想になろうとして、念の起こってくるのを嫌ってはいけない、また念にとらわれてしまって、次々と思いを発展させるのもいけない)という意味です。龍樹尊者(古代インド)の「大智度論」には「心想有って禅定に入る。」とあります。(想いが有るまま、浮かんで来るままでも、それを相手にしなければ、ちゃんと禅定に入っている)

 薬山禅師(唐時代の禅僧)と僧との坐禅についての問答に「非思量」という言葉が出てきますが、「非思量」というと、何か特別な事と思いがちですが、これは当たり前の普通の坐禅のこと、坐禅中の思量不思量(思いが浮かんでは消え、浮かんでは消えていくこと)を言っています。しかし、普段の思量とは次元が違うという事です。

「般若心経」には「不生不滅」とありますが、これも「不生」(修行して悟りや特別な境涯を作り出したりする事ではない。)「不滅」(妄念や思いをやめてしまって無念無想になる事ではない。)という事です。思ったり、考えたりする事も大自然が与えてくれた、素晴らしい働きです。無念無想になる為の坐禅ではありません。

我々の後輩の人が、安泰寺にいた頃、内山老師の「思いの手放し」という言葉を誤解して、坐禅中、思いが浮かんでくる度に、その思いを手放し、手放し、していたようですが、そんな事する必要はありません。坐禅が思いの手放しの姿勢であり、思いの手放しそのものです。彼はその著書「アップデートする仏教」(幻冬社新書)という本の中で「安泰寺の人は誰も教えてくれなかった」「不親切だ」と怒っていましたが、こんな事でイチャモンつけられても困ります。外から見ただけでは坐禅の中身までは、わかりませんし、彼から「思いの手放しが出来ない。」と相談を受けた事も、坐禅についての質問も受けた事がありません。その頃の彼は「大地さんなんかに聞く事は何も無いよ。」という感じでした。その当時、(私達が久斗山の安泰寺で修行していた頃)内山老師はお元気で、宇治の能化院にいらっしゃったのだから老師に直接聞けばよかったのです。老師は「思いの手放し」という言葉をとても気に入っておられたので、このように誤解する人がいるとわかったら、さぞガッカリなされたと思います。

 ずいぶんとわかったような事を書いてきましたが、私も過去には色々ありました。安泰寺の接心中{3度の食事と夜の睡眠以外、坐禅と経行(きんひん)を繰り返す、毎月5日間と3日間の2回ある修行}前の日に安泰寺のふもとの村の久斗山の祭りで友治さんの家で御馳走になった時、靖雄さん(呉市の道心寺住職、現宗議)や覚法さん(竹原市の松月寺の前住職)が歌った、歌謡曲が頭に浮かんで来て離れず、困った事がありました。また、調子良く、スカーッとした気分で坐った事もありました。しかし、こういうのも、いつまでも続くものではなく、時と共に過ぎ去り、消えて行きました。結局、坐禅は自己が自己に親しむだけなので、何の反応も特別な事もありません。私も20歳の時からしていますが、実は、「只管打坐」一本でずっと来たわけではありません。「沢木老師は『坐禅は何にもならん』と言われるけれど、きっと何かいい事があるに違いない。」とか「ひょっとしたら悟りが開けるかもしれんぞ。」などと余計な事を考えた事もありました。もうすぐ67歳になりますが、いくら坐禅しても一向に何ともありません。あまりに何の変わった事もないので、最近やっと坐禅とはこういうものかと、この何ともない所にしぶしぶ落ち着かざるを得ないようになりました。

 さて、「どうして坐禅したほうがいいですか。」という悠心さんの質問には、「坐禅が真実の姿だからです。私たちにできる最高の行為だからです。」と答えたいと思います。「南無坐禅仏」坐禅が仏(悟り、天地一杯の姿)であると信じて、何の反応もない修行を続けて行く。これが私の信仰です。このように言うと、以前の私のように、「坐禅さえしていりゃいいんだな。あとは適当にやっておくか。」と誤解する人があるかもしれませんが、そうではなく、日々の生活もまた、天地一杯の自己の実現の方向へと願って行動しなければならないと思っています。こうは言っても、いつも「俺が・・・、俺が・・・」とか、「自分さえ良かったらいいや」とかいう気持ちが出て来てどうしようもないのが現実です。

マラッシ悠心様へ

                        東影大地 九拝

追伸

2通目のメールで御指摘の通り、いくら坐禅が自己の正体であるからといって、それに執着して、とらわれてしまうと、やはり純粋な修行にならないでしょう。趙州和尚(唐の禅僧)の「放下著」の公案(「私は何も持っておりません」と言ってきた弟子に対して、「何も持っていないという事も捨ててしまえ。」と趙州が指導した)を味わって行きたいものです。

                     2018年4月8日

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