大地さん
メールありがとうございます。
あなたが書いたことは、約50年間坐禅修行をしてきた人としてのオープンで誠実な証言と同時に、はっきりと重要な物です。
あなたの文章は日本伝統の中での修行の生活の透明な表現で、理論によるのではなくて経験による人間の人生における坐禅の価値の肯定であるからです。
人間のパラメタにしたがって坐禅を「正当化する」ことが不可能であると述べていることに私も同意します。坐禅するのはなぜ良いことであるかというと、ただそのとおりであるからです、その答えは坐禅自体にあります。あらゆる理由は、最初の目標または希望であり、坐禅の実際とは全く関係がありません。「ただ座る」という側面には正当化がないです:修は証である。私たちを坐禅に押したり導いたりするすべての理由は、放棄すべきだし、引用した公案のとおり『捨ててしまう』ことをしないと、坐禅にはならない。
宇宙との一体化、宇宙全体の自己を生きることも、または存在の苦しみの解消を達成するという目標さえも、捨てなければなりません。坐禅は「ただ座る」だけではない場合は別な物になるわけです。こういう理由で、とても難しい物です。私たちは、 思いのないときの坐禅だけ本当の坐禅だと思ってしまって、私たちは思いを消そうとしますし、あるいは我々は、私たちが悟りと呼ばれる特別な状態に到達する必要があることを自分自身に確信させます。こういう計画をすることのすべてにおいて、坐禅は失われています。
あなたのおっしゃるとおり50年の間何も起こっていなくてもあなたが進むことを可能にする、属性のない透明な坐禅の中にあなたを保つ信仰に私は感心します。あなたが道元禅師を引用して『真実 (画餅)は人間の物足りようの思いを充たさない(不充飢)』ということに私は同意します。世俗的な視点で見るならば、この「何も起こらない」というのは、失望であり、不満足なことですが、一方、心の目で見るならば、それは十分過ぎることなのです。
我々はすでに、それについて以前のメールで議論してきたが、私たちを区別するものに戻って行きたい。即ちそれは仏の道に沿って の歩きながらの我々の旅の形の違いのことです。これらの違いはおそらく放棄しえないものです。
私は一般的に話すので、おおよその方法で話しますが、複雑さと古来の理由で、 多くの場合、日本への仏教の文化適応が一つの要素を強調してきた。それは、源泉への帰還と、自分の本当の性質への帰還と、自分の本当の面目への帰還と、日本と極東の文化の中で言われている。あるいはあなたが言及した内山老師の言葉で「天地一杯の自己」への回帰することも言われています。
私は、禅仏教をそういう表現で提示することは日本では非常に満足すべきことだと思います。なぜかというと、それは宗教的感受性を持っている者が直接に理解できるし、坐禅の生きている経験を 正当な方法で解釈することに相当するからです。坐禅に入ると私たちの精神には何が起るのか言葉で表そうと思ったら、内山老師の言葉『思い以上のところに働く生命の実物を覚触する』や『一切不二の命を生きている自己を見出す』1が我々の座ることに 意味を与えます。
しかし、坐禅は何年も何年も経っても何も起らないところにただ座るということであると理解しなければならないですので、内山老師の言葉はただ思考を満足させる『画餅』です。それは、個人的な解釈、個人的な言い方に過ぎず、 坐禅の世界の実像として理解されるべきではなく、それは言葉や考えを完全に超えているからです。
しかし、しかし、私たちの思考は滋養物を与えられることを欲し、食欲を満たすことのできる「画餅」を探していますので、しかし、私たちの思考は滋養物を与えられることを欲し、食欲を満たすことのできる「画餅」を探していますので、その表現は、言葉で表すことができない世界に関連していても、良いかもしれません。日本の文化的背景には、自己に「戻る」とか、大自然に「戻る」というのはとても大切であるので、日本ではその表現は特に良いかもしれません。
さて、もちろん禅にはとくべつな参考テキスト、あるいは 正当的なフレーズはありませんが、禅にも、特に新しい文化に入ったとき、それを紹介する言葉の殻が必要です。
イタリャでは、私たちは日本からとその国が発展した文化環境から遠いです。そうすると、禅仏教とその基本的な修行である坐禅を「引き渡す」ときに、「どこまでも、自己が真実にただ自己するだけです」2 という言葉よりも別な比喩に頼る方が良いのです。他の文化から借りることなく、西洋の精神によって意味が正しく理解されることだけでなく、可能な限り普遍的であるというイメージに頼ることは良いことです。
私はまた、禅仏教がその基本的なアイデンティティーを維持するために重要なことが一つあると思います。即ち、現在はマハイアナ(大乗や無限乗や普遍乗)と呼ばれている仏教の 「家族」の隆盛をもたらしたその改革の感覚(方向性と意義)とはっきりと明確な関係がある事は重要である と思っています。
私は、マハヤナ の普遍性と理解力、そしてアイデンティティーは、仏教の初期のナレーションと完全な成熟の両方とのつながりを維持することによって表現できると信じています。
仏教の初期のナレーションでは、仏教の誕生は、存在の苦しみや苦難からの救いの道を求めるものとして表わされています。
後は、仏教の古典的な著者達(たとえば龍樹尊者や世親尊者など)の仏教の完全な成熟の描写は、大乗仏教では、すべての物、すべての人が、苦しみからの救済の道を与えられるように、あらゆる生命(すなわちサンサーラ)を救うことについて、述べられている。
すべての人間の苦しみの解消に自分自身の人生を捧げる選択は、ただ道徳的なできごとではなく、善良な立派な人であることの必要性に結びついているだけではない。それは日常生活の中に坐禅を働かせる方法であり、自己の中と他の人々の中にサムサーラ人生が涅槃になるための実際の深遠な変容を生み出す方法です。
それゆえに、実存の苦しみ として特定された普遍的な問題の仏教の解決策の語です。ただ宇宙の真の現実、または、その真の性質に固執する、個人的な神秘主義として理解されるだけではない。それは私たちを孤立と自惚れの幻影に導く危険性がある提案です。
したがって、坐禅の日常行動への変換は、個人的な利益の鎖を破るように表される。
元の仏教にとって、阿羅漢の理想が最高の目標であったし、最大の願望は、真の自己と自分自身に帰依することでした3。これ は何も間違っていることではない。逆に、そういった指摘の実現は、難しいけれども その後の「議論」のために不可欠である。
そうでありながら、大乗という深化としては仏道の遂行が個人的な実現(どれほど高くても)のことではないと示してあります。しかし、それはすべての人生に対する、一種の無条件な寛大さとしてのみ可能である。
別な言葉で言うと、一方の側にsaṃsāra、他方の側にnirvāṇaがあるわけではないが 同じ人生をふたつの異なる方法で生きることであるわけです。一方から他方への変容は、宇宙全体の自己を生きることへの専念を放棄し、自分の本質を搜すことを放棄し、自分の私的な世界での苦しみの解消を放棄することによって、起こります。
 最後に、私もマイスター・エックハルトの説教38から一つの引用をあなたに捧げます。その状況において、すなわち、言語において、また一神論の伝統において、それは確かに、非常に独創的です:『なぜ私たちが祈るのか、なぜ私たちは断食するのか、なぜ私たちはすべての仕事をするのか、なぜバプテスマを受けるのか、なぜ(すべての最も崇高なもの)神が人間になったのかと尋ねられたなら、私はこういうふうに答えます:神は魂の中で生まれるから、魂は神の中で生まれるからです。この理由から、聖書全体が書かれており、このために神は世界とあらゆる天使の性質を創造しました:神は魂の中で生まれるから、魂は神の中で生まれるからです。』

東影大地さんへ

マラッシ悠心九拝
2018年5月3日

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